『新編日語』という古い教科書がある。日本語部分は東京外大付属日本語学校の『日本語』(1976年)。それを当初、赴日予備学校が原文のままテキストとし、また省自考試験の指定教科書とするに当たって中国語の翻訳・解説をつけて出版されたのが1984年。一応当時としては最新の教科書だったわけであるが、現在30~40歳代の中国の先生方はまず間違いなくこの教科書の洗礼を受けている。そして、中学・高校用の教科書の訳語・解説にもその影響は色濃く反映されているに違いない。以下にご紹介申し上げる語彙の訳語は、その『新編日語』のものである。『新編日語』は新出語彙の解釈(訳語)に問題が多いだけでなく、文法説明や文型練習部分にも問題や間違いが多く、アクセントや漢字の誤植も山ほどある教材である。そして、私たちが中国の先生方や日本語既習者と話していて気になる表現のほとんどが、その源を辿ればいずれもこの『新編日語』に辿りつくものばかりなのである。
従って、教師が教科書の訳語・訳文に頼らず、適切な例文(場面設定)によって新しい単語や文型を提示するにしても、その当の現場の教師たちの頭の中に染み着いている『新編日語』の影響・後遺症を払拭しないことには、もっと言えば、頭の中の「癌細胞」を切開・除去してしまわなければ、誤って刷り込まれている知識内容を各個撃破して正しい内容と入れ替えるのでなければ、「向こう」はやはり「对面」だと教えられてしまうのではないかと危惧される。
語 彙(〈 〉内の中国語は『新編日語』の訳語)
「いらっしゃいませ」〈欢迎〉
着任初日に自考クラス快班(既習者クラス)の学生にこう言われて、どこかのお店に迷い込んだのかなと仰天してしまった。訳語は「欢迎」となっていて、客を歓迎する挨拶と言うような注記はなかった。
歓迎の意を表わす言葉は、「いらっしゃいませ」(店員→顧客)だけではない。学生が新任の日本人教師を迎える言葉としては、「ようこそお越し下さいました/いらっしゃいました/お出で下さいました」が適当であろう。
「先生、おかけなさい」〈请坐〉
そして、次ぎの瞬間こう命令されて、二度びっくり。「~なさい」は(やさしく)命令する言葉だなんて夢にも思っていない。それもそのはずで、訳語は「请~」となっている。「おやすみなさい」「ごめんなさい」と平板に読む挨拶語は例外。「おやすみなさい」は「おやすみなさいませ」、「ごめんなさい」は「ごめんなさいませ」の短縮形で、平板アクセント⓪で言う。しかし、「おかけなさい」は⑤。
やさしく、ではあっても、命令は常に目上から目下にする行為である。日本では、母親や女性教師などが子供に命令する場合、「~なさい」を使う。学生が先生に椅子を勧める場合は、「どうぞお掛け下さい」が適当。
「あなた」〈你/您〉
「先生、あなたの家はどこですか」と、18歳のうら若きお嬢さんから「あなた」と言われて、胸はドキドキ。学生は先生に使うなと、やはり教えておいて欲しい。訳語には敬称の「您」まで付け加えてあった。
では、「您」は何と言ったらいいのか。「お前/貴様」などは、漢字を見ると尊敬語のように見える。ところが現代日本語では、目下の者や敵対する者に対してしか使わない。第二人称を口にすることからして失礼なことと考えて、現代日本語では、敬語を使うことで、第二人称を極力口にしないことにしている。「あなた/君/お前」など第二人称を使うのは、目下の者や親友、夫や妻など、遠慮の要らない相手の場合だけ。
「おめでとうございます」〈祝~〉
中国語の「祝」には、成就後に祝う「祝賀」(いわう)と、成就前に祈る「預祝」(いのる)とがある。だからよく年末の「新年聯歓会」などで「明けましておめでとうございます」と言われてしまう。日本にも「前祝い」というのがあるが、「祝う」のは基本的に事が成就した後である。
「自分で/ひとりで」〈自己〉
中国語の「自己」は、「一人で~する」時にも、「自分で~する」時にも使う。日本語のように細分されていない。そこで、「昨日私は自分でご飯を食べました」などと言って、「あれっ、病気だったのかな」と私を心配させる。実際には「一人で食べた」というだけのことなのに。
「自分で~する」とは、他人に頼らないで自力でするという意味だ。「一人で~する」とは、それをした時の総員数を述べている。
「それ/あれ」〈那〉
現代中国語では「それ」も「あれ」も「那」なので、日本語にした時、区別できない者がいる。古文では「此/其/彼」がある。また、「こんなに/そんなに/あんなに」のうち、「そんなに~ない」には別の意味もある。
「~てあげる」〈给〉
日本語の「やりもらい」は、漢族にも朝鮮族にも使い分けが難しい。中国語や朝鮮語にも類似表現はあるが、中国語は日本語のように「よいこと/よいもの」の場合に限らず、雑巾を手渡す時にも「給你」と言うし、朝鮮語では自分から相手に何かする(渡す)場合にも使う。それで、朝鮮族の先生などはよく「これは明日コピーしてあげます」とおっしゃるので、明日は平身低頭して恭しく時間割のコピーを頂戴しに行かなくてはならない。日本語ではこの場合、「これは明日コピーして渡します/お渡しします」と言う。
「向こう」〈对面/对方〉
「一定の空間を隔てたその先」の意。山や海、道路などの空間を隔てたところである。顔と顔、玄関と玄関が向き合っている位置関係は「向かい」と言う。道を隔てて向き合っている家がある場合、こちらの家からあちらの家を指して、「向こうの家」とも言うが、それはあくまでも「道の向こうにある家(道を隔てたその先にある家)」という意味である。「向こうの家」と言った場合、その家とこちらの家との玄関は向き合っていなくても構わない。
「みやげ」〈地产/礼品〉
「みやげ」とは何かと尋ねると、学生はよく「特産品」または「贈答品」のことだと答える。「吉林省のみやげは鹿の角」「誕生日のみやげ」などと言う。「みやげ」とは「途中で買った贈り物」だと教えている。それは旅の途中、自分の帰りを待つ人のために買い求めてもいいし、会社帰りの途中、子供に与えようと駅前で買った「たこ焼き」でもいい。自分用ではない。贈り物の一種である。しかし、誕生日に「おみやげ」を渡されると、有り難味が薄い。来る途中で買わず、わざわざ買って来てほしい。
「門/玄関/出入口」〈门〉
中国語では、敷地に入る「門」も建物に入る「玄関」も部屋に入る「出入口」も「门」である。つまり、出入口一般を「门」と言っている。図示して説明すべきだろう。
「嬉しい/楽しい」〈高兴〉
「お会いできて~」「昨日は一日とても~かった」。「~贈り物」は、ふつう「嬉しい」が入るが、ゲーム器なら「楽しい」にもなる。「~人」は「嬉しい」?「楽しい」?
「感心」〈感动/佩服〉
これは、初級の習得単語ではないかもしれない。しかし一度学生が目上の人のことを話しながら、「感心しました」と言った。日本語では、目下、特に子供なのによくやると褒めて言う言葉だ。そもそも褒めること自体、目上から目下への行為だ。中国語の「佩服」は日本語の「感服・敬服」に当たる。
「関心」〈关心〉
中国語の「关心」は、他動詞。日本語では名詞で、「関心する」という言い方は普通はしない。人に対しては「関心を払う/寄せる」(≒心配する)、物事に対しては「関心を持つ/抱く」(≒興味を持つ)。
「私は~が上手だ」〈高明/好〉
日本人の大人たちは「私は~が上手だ」とは決して言わない。どんなに自信があっても、せいぜい「~は得意なほうです」止まりだろう。
一度こんなことがあった。日本の学生ばかりの団体が師範大学に立ちより、中国の学生たちと座談会をやった。日本の学生に将来の抱負を尋ねられ、中国の学生は口々に「私は将来、優秀な(立派な)教師になるつもりだ」と答え、それを聞いていた日本の学生たちからは「ほぉー」と感嘆・驚きの声があがった。日本の学生は決してこのような言い方はしない。「私は~優秀な~」と、将来のことについても、自分を褒めない。また、「私は~」の「は」は対比の意味を持ち、他者とは違うことを際立たせる。その場に先生がいらっしゃるような場合、「あんな連中とは違う優秀な教師になりたい」とも聞こえる。だからみんなはびっくりした。後で色々聞くと、「ご在席の先生方のような立派な教育者に私もなりたい」という意味らしい。中国では数量詞が入って「我想当一個優秀的教師」……日本の大人ならこの場合、「一人前の教師になりたい」と言う。
「トランプで遊ぶ」〈玩儿扑克〉
中国語の「玩儿」は他動詞だが、日本語の「遊ぶ」は自動詞だから、「トランプを」とは言えない。
「~ね/~よ」〈~啊〉
中国語にも朝鮮語にも「ね」と「よ」のような区別はないらしい。朝鮮族の学生に食堂でキムチを勧められ、口に入れたとたん、「先生、そのキムチは美味しいですよ」と教えられ、思わず「はい、わかりました」と答えそうになった。
「~ね」は聞き手に確認を取ったり、同意を求めたりする語尾であるが、「~よ」は一方的に教えたり、主張したりする時の語尾である。
「Aさんも意志が強い人だ」〈~也〉
中国語の「也」は、原則上、主語のすぐ後ろに置く。「Aさんは(心根が)優しい人だ」。この文の後ろに、「も」を使って、「Aさんは意志が強い人だ」という内容を言わせると、「Aさんも意志が強い人だ」と言ってしまう。
日本語の「も」は、主語の後ろでなく、同一内容・同一評価(+/-)の内容部分の前に置く。主語以外、すべて同じ内容であったり、同じ評価を伴う内容(例えば「Aはアメリカへ留学に行った」「Bも日本へ働きに出かけた」……二人とも出国できて羨ましいなぁ)の場合のみ、「主語+も」となる。
この場合、「Aさんは意志が強い人でもある」となる。(「意志も強い人だ」は、×ではないが△)
「よく~する」〈好好儿地~〉
「よく噛んで食べなさい」と言うと、「充分噛め」と言っているようにも思えるが、「あの人はよくここへ来る」は「充分来る」のではなく、「頻繁に来る」つまり頻度が高く、回数が多いという意味だ。「よく噛め」も、「繰り返し何度も噛め」ということでもある。「よく考えろ」も、「深く考えろ」と言うのと同時に「何度も反復して考えろ」ということだ。「ああ。今日はよく食べた」は、「充分」な量を食べたと言うことだ。「あの人はよく食べるねぇ」は、「充分」ではない。「充分」ではないから大量に食べる。「よく休む」は「欠席が多い」という意味だし、「今日はよく休め」は、「充分」な睡眠時間をとれと言うことだ。だから、「よく~する」は、「よく聞きなさい」や「よく効く」のような質ばかりではなく、数量(頻度・回数)のことを表わす場合も多い。
「~なくて/ないで」〈不~而~〉
動詞の後ろには「~なくて」ではなくて、「~ないで」が付く。但し、「ない+ても/ては」は、「~なくても(いいです)/ては(なりません)」となる。なのになぜか中国の学生は動詞の後ろに「~なくて」を付けたがる。
「Aさんは東京へは行かなかった」「Aさんは大阪へ行った」……これを一文にすれば、「Aさんは東京には行かないで大阪に行った」、あるいは「Aさんは東京ではなくて大阪へ行った」となる。両者は微妙にニュアンスが異なる。前者は「もともと東京へ行く予定だったのが大阪に変更になった」かのようだし、後者は「行き先が東京と言う情報は誤りで、本当は大阪だった」というように訂正を加える言い方だ。
「わざわざ/わざと」〈特地/故意〉中級以上
これも朝鮮族の学生・教師がよく両者を混同する。漢族は割と間違えずに使う。
「わざわざ」は、他者へのよい結果を期待しながら時間・費用・労力を費やして故意に行なうのに対し、「わざと」は、他者に好ましくない結果をもたらす(カも知れない)と分かっていて、敢て故意に行なう場合に言う。
「ざっと/いちおう/だいたい」と「とりあえず」中級以上
いずれも100%完璧ではないことを意味している。「掃除した」「読んだ(目を通した)」「食べ(終わっ)た」の前に付けてみよう。「一応/大体」は、どれにも付くが、「ざっと」は、「読んだ」「掃除した」には付くが、「食べ(終わっ)た」には付かない。「ざっと」は、目で見える範囲というか、面で考えて、目に付くところ・目立つところは、完璧でないが簡単にやると言う意味だと思われる。「一応」は、やはり質としては100%完璧ではないが、始めから終わりまで一通りやるという意味。「大体」は「大部分」(いずれも漢語)。「とりあえず」は、いまは最良の方法・選択のできる状態ではないが、いまできる最大限のことをひとまずやり、後で条件が整い次第、もっと完璧にやりたいという意味だ。どれも「ちゃんと/きちんと」やらない。ただ「やったか、やらなかったか」で分ければ「やった」という部類には「一応」入る。世の中には、こういう仕事の仕方をして平気な連中が結構いる。例えば「電話をしろ」(打個電話)と言われて一度だけ電話をする。「電話をしたか」と聞かれて「した」と答える。「相手は何と言っていたか」と聞くと、「電話はつながらなかった」……まるで漫才である。
「なかなか」「なかなか~ない」
かなり以前の話になるが、師範大学の日本文化祭の司会者が傑作だった。どんなに名演技をやって見せても、「はい、なかなか上手でしたね」と判で押したように言う。「なかなか~だ」は賞賛する言葉では決してない。予想以上……つまり「もっと下手だと思っていたが、意外に上手にやれたね」と言っているのと同じだ。「なかなか~ない」のほうは、時間・お金・労力を費やしても、思うように~ないという場合。
「続く/続ける」〈继续〉
中国語では、同じ動詞が自動詞としても他動詞としても使われるものが多い。そこで「続ける」と「続く」の場合のような両者の混同を起こしやすい。と言うか、「続」という漢字に引きずられて両者を混同しているのかもしれない。
「勿論/当たり前/当然」〈当然〉
中国語の「当然」は、「当(まさ)に然(しか)り」……「はい、その通りです」「おっしゃるとおりです」という意味を表しているが、日本語の「勿論(もちろん)/当たり前/当然」は、「改めて論ずるまでも無い」「説明するには及ばない」「言うまでも無い」など、それ以上の議論・会話を断ち切ってしまう言葉であるから、何かを尋ねた時にこういう答えが返って来ると、非常に不愉快な気分にさせられるので、注意されたい。使っていいのは、①自分が何か説明している時、蛇足的な注釈を加える場合。例えば、「私は昨日、一日中、本を読んでいました。一日といっても、勿論(わざわざ申し上げなくてもお分かりでしょうが、念のため申しますと)24時間ということではなく、朝から晩まで、本を読んでいました」。②人から「…していただけないでしょうか」とか「…しても宜しいでしょうか」などと要請・依頼されたり許可を求められた時、「何を今さらそんな水臭いことを。一々聞かなくても分かるでしょう」と、一も二もなく喜んで承諾する(引き受ける)場合。
「さようなら」〈再见〉
これはよく町の食堂などを出るときに、にこにこ笑いながら浴びせられる言葉だ。中国語には「再」の字が付いていて、「また会いましょう」という意味だが、「さようなら」は、「では/それでは/それじゃあ」と、今日はここまでと言うだけで、次回に就いては語らない。お店の人には、「またどうぞ」と訂正することにしている。病気見舞いの帰りにも「さようなら」は禁句である。
※学内でしばしば先生に「じゃあね」などと言っている学生を見かけるが、小中学生ならいざ知らず、大人である学生が大学の先生にこう言う場合、「よほど親しい間柄」でなければ、こういう言い方はしない。先生が学生にこう言うのは構わないが、さっきまで「です/ます」を使って丁寧に話していた学生が、帰り際にいきなり「じゃあね」と先生に言うのは、突然馴れ馴れしくなったようで変である。一切の敬語表現が不要な、格別親しい間柄でない限り、「それでは、また」とか「失礼します」とか言わなければ、待遇表現の格の統一が保てない。
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